製品進化とマネジメント風景 第50話 窒素固定の進化と環境マネジメント
最近、新聞、雑誌で脱炭素という言葉を見ない日がありません。世の中全体がそちらに向かうベクトルが確実に作られつつあると感じます。私がこのベクトルに最初に気付いたのは2017年にスイスでエネルギー関係の国際会議に出席した時でした。その時はスイスの大手保険会社が脱炭素を声高に主張していたのですが、エネルギー会社幹部の反応は、気にはしているものの、余り真剣にメッセージを受け取っていない様子でした。
しかし、その後、その声は次第に強まり、今年の5月26日にはオランダ裁判所が、欧州石油最大手のロイヤル・ダッチシェルに対してCO2低減の取り組み強化を命じました。また、同日、米国石油大手のエクソンモービルの株主総会にて、小株主が脱炭素を強力に推進するためには、環境問題専門家2名を取締役にいれる必要があると主張し、その主張が大株主の支持を得て、エクソンはそれを受け入れました。さらに、先進国の中央銀行は相次いで、彼らが社債を購入する際の条件に脱炭素削減を追加しました。
脱炭素の動きは好ましいものと認識しますが注意も必要です。仏教の講話には吉祥天と黒闇天の姉妹の話がありますが、これは何事にも二面性があり、福の神と貧乏神は一緒に来て一緒に去っていくという話です。石炭・石油にも当てはまります。これらは、我々にエネルギーによる利便性・経済発展を与えてくれましたが、同時に環境問題を残しました。
脱炭素がある種の強制の域に達すると、苦し紛れの対策を打つ企業も現れてくることになるでしょう。本来は、地球全体の環境負荷を低減することが目的のはずですが、炭素だけを減らして別の何かを排出して義務を果たそうとする考えが必ず出てくるものです。そのような動きがパンドラの箱を開けないかとても心配です。今回は、パンドラの箱の1つの候補である窒素問題を取り上げたいと思います。
人間の身体に含まれるたんぱく質は20種類のアミノ酸から作られていますが、アミノ基には必ず窒素が含まれます。20種類のアミノ酸のうち11種類はDNA情報を使って人の身体の中で作られます。DNAには4つの塩基であるシトン、チミン、アデニン、グアニンがあり、これらの中にも必ず窒素が含まれます。よって、人間の身体にとって窒素が不可欠な元素であることが分かります。必要な20種類のアミノ酸のうち、9種類は体内で作れないので、それは外から食べることで補充します。穀物、野菜、肉、魚ということですが、これら動植物も人間と同様、アミノ酸とDNAを持っています。つまり、生物にとって窒素は不可欠な元素だということです。
窒素は大気の80%を占める元素であり、どこにでもある元素です。ならば簡単に身体に取り込めるのではないかと思いたくなりますが、実はその逆です。空気中の窒素は化学的に非常に安定であり、それを取り込んで固定化することは至難の業です。CO2も化学的に安定で減らせずに困っていますが、植物は簡単に取り込んで固定化していますから、窒素はそれ以上の難物だということです。
窒素を固定化する方法を大別すると3つに分けられます。第1は根粒菌を代表とするいくつかの細菌による窒素固定化です。第2は雷が落ちた時、その電気エネルギーにより窒素が酸化されることによる固定化です。人は、雷が落ちた木の周辺では収穫が増えることを2000年以上前に気付いていました。人間はすごいなと思うのは、理由は分からなくても自分に役に立つ事を見分ける鋭い能力があり、それを集団内に知恵として固定化し、さらには子供にも伝達していく仕掛を持っていることです。なお、第3は人工的な固定化です。パンドラの箱を開く可能性があるとすればここでしょう。
人は、穀物とマメ科植物を交互に栽培すると土地の生産性が上がるということをやはり2000年前から知っていました。前述の雷効果よりもはるかに強力だったので、この知恵は世界中に広まりました。マメ科栽培の話とは別に、人はかなり昔に肥料という知恵を獲得しました。菜種かす、魚肥などを撒くことにより穀物の生産性が上がることに気付きました。全く別の話として、戦争の道具である火薬が中国で発明され、世界中に広まりました。肥料も火薬も人や動物の糞尿あるいは動物・魚の腐敗と関係があり、土の中の微生物が関与していることは分かっていました。その後、これらの原料として硝石等の窒素化合物が有効であることも分かり、産業革命後に一気に需要が増えました。
窒素化合物の原料として一時、チリ硝石が注目を浴びましたが、自然界に存在するものだけに頼っていてはいずれ枯渇すると考える人達が増え、大気中に豊富に存在する窒素を固定化することにチャレンジする人達が出てきました。19世紀末に最初の人工窒素固定法が開発されました。石灰窒素法です。その後、雷を真似した電気アーク放電を用いる電弧法も開発されました。しかし、事業面でも成功したのは、窒素ガスと水素ガスを合成してアンモニアを作るハーバー・ボッシュ法であり、これがその後のスタンダードとなり、今日でも使われています。
ハーバー・ボッシュ法は、500-600℃の高温、200-500気圧の高圧環境で窒素と水素に鉄系触媒を加え得アンモニアを合成する方法です。もっと高圧にする場合もありますが、上記の数字を見て分かることは、大量のエネルギー投入が必要ということです。水素原料は、これまで化石燃料から抽出されており、アンモニアを1トン造ると約2トンのCO2が排出される勘定です。今のアンモニア生産量は約2億トンなので、単純計算すると4億トンのCO2発生源であり、世界全体のCO2排出量の1%強を占めています。また、世界のエネルギー生産量の2%程度を消費しているとも言われています。よって、エネルギー消費やCO2発生を減らすアンモニア製造法が求められています。
このようにエネルギー消費の多いアンモニア合成ですが、生産されたアンモニアの80%以上は肥料にされています。この肥料の威力は絶大であり、70億人を超える人間が食べていけるだけの穀物生産を可能としました。私自身、食料で困らないのはアンモニア系肥料のおかげと思っています。今日でも食料不足に苦しむ人々がいますが、これは穀物生産量の問題ではなく、それ以外の要因が起因しています。
植物は、自身が欲する窒素をアンモニアイオンか硝酸イオンの形で吸収します。土壌には、アンモニアイオン(NH4+)を硝酸イオン(NO3-)にするアンモニア酸化菌、硝酸イオンを亜硝酸イオン(NO2-)にする亜硝酸酸化菌、さらには亜硝酸イオンを一酸化窒素(NO)、亜酸化窒素(N2O)を経由して最終的に窒素(N2)に還元して大気に戻す脱窒菌がいます。このように自然な環境では、大気中の窒素は、細菌によりアンモニアとして固定化された後、植物に取り入れられますが、最終的には土に戻り土壌の細菌によって大気に戻ります。持続可能な状況を作っているわけです。
アンモニアによる肥料は穀物生産性を向上しましたが、問題も生じ始めています。それは、施肥された肥料のうち、穀物が吸収するのは半分であり、残りは土壌に残ります。特に硝酸イオンは水に溶けやすく雨によって土から流出し、河や海に流れ込みます。硝酸イオン濃度が高いと水は富栄養化された状態となり、河や海において特定の生物に適した環境を作り出します。硝酸イオンを最終的には窒素に還元して大気に戻すには大量の酸素が必要であるため、水の中は酸欠状態になりやすくなり、酸素呼吸する生物は生きられなくなります。生態系自体を変えてしまうことになるのです。
別の懸念もあります。硝酸イオンが最終的に大気の窒素に戻るには、途中で一酸化窒素NOや亜酸化窒素N2Oを経由することです。特にN2OはCO2の300倍の温暖化効果がある気体です。仮に、CO2が減ってもN2Oがその1/300だけ増えれば温暖化への影響はキャンセルアウトされてしまうのです。
産業革命前の地球では、窒素は大気から生物に取り込まれ、それがまた大気に戻るという持続可能な循環を続けてきました。現在、人が生産するアンモニア生産量は、地球上の微生物が生産する量の半分程度まで達しています。局所的には富栄養化問題が起こっていることから、一部の人は、人工的窒素固定量が既に生態系の処理能力を超えていると言っています。そうかもしれないし、まだ余地があるのかもしれませんが、いずれにせよ、このまま窒素化合物の排出量を増やしていくと、どこかで限界に達するでしょう。よって、脱炭素という目的を達成するために、窒素化合物の自然環境への排出量を増やし続けるのは拙いと思うわけです。
この文脈で最も気になるのは、脱炭素の旗印の下、アンモニア生産量を増やし、燃料として使おうという動きが活発になってきていることです。
アンモニアは毒性を持っていることが欠点ですが、水素輸送手段として優れていることは確かです。また、アンモニアを燃やしてCO2を発生せずに火力発電をすることが可能です。CO2は出ませんが、何の工夫もせずに燃やすと窒素酸化物NOxが大量に出ます。しかし、ガスタービンのような連続燃焼方式では、リッチ・リーンというある種の2段燃焼方式を適用することにより、NOx発生を大幅に抑制する燃焼技術が内閣府のSIPプログラムで開発されました。ただし、耐久性等の問題が残っています。
NOx発生を抑えたといってもかなりの量が残るので、脱硝装置で窒素に還元して大気に戻します。この脱硝装置ですが、技術的には成熟しており問題ないと思います。ただし、NOxを窒素に還元するためにアンモニア投入が必要であること、また、高温で処理する必要があることから、かなりのエネルギー多消費プロセスとなる懸念があります。アンモニア燃料の生産から燃料として燃やし、最後に窒素に還元して大気に戻すまでの全プロセス、さらにその設備運用の生涯を通してどの程度の環境負荷になるのか、客観的に見えるようにする必要があります。
私個人は、上記のアプローチが本当に持続性のあるソリューションなのか、まだ、確信が持てません。その理由の1つは、時々、再生可能電力を前提として環境負荷を見積もる報告書を見かけるためです。現在の世界の電化率が20%台であり、再生可能電力はその1/4程度であることを考えると、その実現性を疑いたくなるのです。CO2低減で短期策として効果があるのは、石炭火力から天然ガス火力への転換です。この効果は、天然ガスからアンモニアガスへの転換よりも、削減量という視点では効果があります。もちろん、カーボンニュートラルへの途中ステップでしかありませんが、そもそも、一気にカーボンニュートラルに進むのは無理があるので、まずは、確実に手が届く所をしっかり達成することも重要だと思います。
アンモニア生産そのものが、エネルギー多消費プロセスであり、CO2発生源となる話はしました。よって、生産のためのエネルギー消費量を減らすことは非常に意味があります。今もハーバー・ボッシュ法の改良は続いています。注目すべきは、水と二ヨウ化サマリウムの混合物とモリブデン触媒を用いて常温常圧でアンモニアを作る方法が出てきたことです。この方法自体はサマリウムというレアアースを還元剤として大量に使用するので工業化できると思えませんが、常温常圧でアンモニアを生成できる可能性が実証された所に意味があります。しかし、先はかなり遠そうです。
別のアプローチとして、微生物を活用してアンモニアを生産する方法が検討されていますが、こちらも工業化には至っていません。肥料に依存しない穀物を作ろうという試みもされています。マメ科植物は根粒菌と共生関係を持ち、よって、窒素を取り入れることが可能です。しかし、人間にとっての三大穀物である稲、小麦、トウモロコシはどれもそれが出来ません。生産性アップには肥料が必要なわけですが、これを遺伝子改造して根粒菌と共生できるようにしてしまおうというアイデアです。さらには、窒素をアンモニア化する際の酵素であるニトロゲナーゼの構造や機能がかなり分かってきたことから、これを人工的に創り出そうという話もあります。どれも興味深い話ですが、実用化までには非常に長い時間がかかりそうです。
前述の話もそうですが、今日の世の中に残された課題は、単独の専門性では解決できない事が多くなりました。個々の専門性はそれぞれ重要ですが、それらをどう統合するか、その重要性が増してきました。同時に、その統合を進める組織的な仕掛けも重要となってきました。しかし、異なる専門分野の間では言葉が通じないことも多く、それを統合するには事業、技術、生産、サービスをセットでまとめ上げるノウハウが必要です。貴社は、異分野の専門人材の知恵を統合する仕組みを構築済ですか?